篠原資明企画「超少女まぶさび宇宙-竹中美幸 : 寺田就子」
竹中美幸 「光/闇」(部分)
35ミリフィルム、アルミ板、他 20.0×130.0×h226.0(cm) 2015年
|
篠原資明企画
「超少女まぶさび宇宙-竹中美幸 : 寺田就子」
2015年9月12日(土)~10月17日(土)
12:00- 18:30
日月/祝日 休廊
鼎談: 「超少女たちとまぶさび宇宙」
本展企画者である篠原資明氏と、出品作家である竹中美幸と寺田就子が展覧会について語ります。
10月3日(土) 16:00~ (予約不要)
*終了後、ささやかなパーティーを予定しております。お気軽にご参加ください。
寺田就子 「スミレ色の影 - しずく」(部分)
アクリル板、鏡、蛍石、釘 φ10.0×h45.0(cm) 2015年
|
超少女まぶさび宇宙
篠原資明
1980年代も後半になるだろうか、「超少女身辺宇宙」*1という一文をものしたことがあった。その折の「身辺」を、このたび「まぶさび」に変えたく思ったのには、理由がある。まぶさび素材、すなわち透明素材と反射素材とが、いよいよ身辺にあふれるようになってきている、そのことにあらためて注意を促したいからだ。
ともあれ、「まぶさび」という造語について、まず説明が必要だろう。それは、「まぶしさ」と「さびしさ」を掛けあわせて造った言葉で、20世紀の末あたりから使いつづけてきたものだ。透明素材を活かした「すきとおり」の美学と、反射ないしは反映素材を活かした「まばゆさ」の美学とが、19世紀の中頃から展開され、洗練されてくる、そのことに着目したのである。もっとも、「すきとおり」の美学にせよ、「まばゆさ」の美学にせよ、「さび」の心で受けとめてこそ、「まぶさび」といえる。そのためには、やはり、はかないもの、うつろいいくものへの眼差しを忘れてはなるまい。
今回の展覧会に参加する二人の女性アーティスト、竹中美幸と寺田就子は、そのような観点から注目してきた作家である。寺田の作品については、21世紀になるかならないかの頃から知っているが、はっきりと覚えているのは、京都府美術工芸新鋭選抜展(京都文化博物館、2004年)で、審査委員として寺田を優秀賞に推薦したときのことだ。透明素材の使い方が、とても洗練されていたのである。竹中の作品については、VOCA展(上野の森美術館、2012年)で、その透明樹脂の使い方に目を奪われことを思い出す。あまりに感動したものだから、拙ブログ、マブサビアン上で勝手に、まぶさび大賞受賞者としてノミネートしたほどだ。*2
さきほど、透明素材と反射素材とが別ものであるかのように語ってしまったが、大切なのは、透明素材も反射したり反映したりするという事実である。たとえばショーウィンドーを覗いていると、そこに映る自分に気づくことがあるはずだ。その場合、透かし見る向こう側と、映り込むこちら側とがダブって見える。しかも、そのダブり具合は少し移動するだけで、あっという間に変わったり消えたりもしよう。透明素材ならではのこの独特の奥行を、重奏する奥行と呼ぶことにしている。
寺田は、透明素材とスーパーボールやビー玉などを組み合わせることで、精妙かつ繊細な視覚世界へと誘い込む。幻惑という言葉を、思わず口にしたくなるほどの重奏する奥行の戯れが、そこにはある。
既製品を使うことの多い寺田と違って、竹中は支持体への直接的な定着にこだわりを見せる。たとえば透明なアクリル板に透明樹脂を定着させるといった具合にだ。ただ、そういった操作も、アクリル板を間をおいて重ね合わすなら、どうなるだろうか。手前の樹脂が向こうのアクリル板に影を落とし、樹脂の形と影の形とが、さまざまに重奏し合うのである。
変化しつつある重奏に居合わせることで、時のたつのも忘れ、目も心も奪われる。寺田にせよ、竹中にせよ、そのような愉悦に誘ってくれるのだ。
ただ、まぶさび素材といっても、それはそれで歴史的変遷がある。新たに開発され、使われるようになるものもあれば、その一方で、作られなくなったり、かつてほど使われなくなったりするものもあるわけだ。子供の頃、あるいは若年時に製作され使用されていた素材も、ふと気づくと、いつの間にか見かけなくなっている。そのような経験は、よくあることだろう。
そのような素材の一つに、35ミリ映画用フィルムがある。このフィルムは、そもそも日本国内では数年前から製造されなくなったという。このところ、竹中が試みているのは、ほかでもないこのフィルムに光をとらえ、それらを重層的に配置することである。大学生の頃から、映画用フィルム現像所で仕事をしていたという竹中にとって、それは、なつかしい素材だったのかもしれない。
寺田がよく用いるスーパーボールやビー玉、分度器などの文房具は、子供の頃からなじんだものが多いという。竹中が語ってくれたところでは、近くのセロハン工場の思い出が、今日の仕事に通じているかもしれないとのこと。いずれにせよ、二人それぞれに、なつかしむことが、新しい作品へと進展しているように思われる。おさな心の展開にこそ、文化の醍醐味があると看破したのは、稲垣足穂だった。超少女とは、おさな心の展開の女性ヴァージョンといってよい。シューコ・ワールドとミユキ・ワールドとが、さらに重奏すると、どうなるか。この秋が待ち遠しいゆえんだ。
(しのはら・もとあき/京都大学大学院教授)
*1 『美術手帖』1986年8月号、のちに拙著『トランスアート装置』思潮社、1991年、に収載
*2 ブログ「マブサビアン」2012年3月26日 http://mabusabi.blog.so-net.ne.jp/
ちなみに、まぶさび大賞とは、マブサビアン上で不定期に設けている賞で、もちろん賞金もない。
ギャラリーキャプションでは9月12日より10月17日まで、篠原資明企画「超少女まぶさび宇宙-竹中美幸:寺田就子」を開催いたします。本展は、透明樹脂や、近年では映画用フィルムを用いた作品を手がける竹中美幸(たけなか・みゆき/1976年岐阜県生まれ)と、鏡やガラスなど、光の透過と反射を思わせる素材をあつかう寺田就子(てらだ・しゅうこ/1973年大阪府生まれ)を、京都大学大学院人間・環境学研究科教授であり、詩人、批評家として知られる篠原資明(しのはら・もとあき/1950年香川県生まれ)が提唱する「まぶさび」の美学の見地から捉えようとする特別企画です。
本展タイトルの「超少女まぶさび宇宙」は、篠原氏が雑誌「美術手帖」(1986年8月号)に寄稿した「超少女身辺宇宙」がベースになっています。「まぶさび」とは、「まぶしさ」と「さびしさ」を掛けあわせた、篠原氏による造語で、近代以降に見受けられるようになったガラスやプラスティックなどの透明素材、反射・反映素材が我々にあたえた「すきとおり」と「まばゆさ」に対する美的感覚を、「さび」のこころで受けとめようとするものです。
「超少女」は、1980年代半ば、松井智恵、吉澤美香らに代表されるような、それまで男性中心だった美術界において、枠組みにとらわれず、華やかで軽やかなインスタレーションを推し進めた「身辺性への偏愛に生きながら、偏狭さを抜け出た」女性アーティストたちを指す言葉として篠原氏が用い、注目を集めました。そして約30年を経た今回、現在の「超少女」として、少女といわれる年齢を過ぎても、きわめて少女的である存在を意味しながら、単なる少女趣味にとどまることなく、幼少期に親しんだものに「なつかしむ」ことを制作の礎のひとつとする、竹中美幸と寺田就子に着目します。”なつく、馴れ着く”を語源とする「なつかしむ」は、現在の自分自身によって呼び覚まされる感情です。稲垣足穂が「芸術とは幼心の完成である」と指摘したように、両作家それぞれのおさな心は、身近に慣れ親しんだ素材を用いながら「まぶさび」のこころで、宇宙的な広がりへと展開されることでしょう。
10月3日には「鼎談:超少女たちとまぶさび宇宙」として、企画者と作家とのトークイベントを予定しております。会期中には是非ご高覧賜りますよう、ご案内申し上げます。