study meeting vol.15 「反復する写真と絵画」
study meeting vol.15 「反復する写真と絵画」
日時:2020年1月18日(土) 17:00-19:00
定員:10名 (予約制)
参加費:1,500円 (青森のりんごジュース付)
講師:先間康博 (写真家)
会場:GALLERY CAPTION
第15回目となる今回は、現代を代表する画家のゲルハルト・リヒターを中心として、今日の絵画の世界から見える写真の姿を追うという試みである。
リヒターは、その主なキャリアを、写真を描き写すフォト・ペインティングから始めた。描く時、自分の意志で動いてしまうことから逃れ、写っているものをただ引き受けることで、自らの真の自由を取り戻すために写真を用いたという。それは、写真というものを体感として吸収し、リヒターそのものが“写真”と化すことのようにも思う。だからこそ、それらの絵画は、それほどリアルなものではなくても、どこか写真というものを感じずにはおれないのではないだろうか。このことは、リヒターがアブストラクト・ペインティングという対象の無い抽象絵画に移行した後であっても、印象は変わらない。
思えば、絵画は見ることから始まり、それを描き写すものである。写真もまた、描くことはないとはいえ、見て、写す。その、どこか同じで、どこかが異なる二人。その狭間を往還しながら、絵画というものを追求し続けるリヒター。そんな彼の姿を中心に、絵画の世界を追うことは、絵画としてだけでなく、写真というものを考える上でもまた、とても大切なことではないだろうか。
先間康博(写真家)
先間康博(さきまやすひろ)
1966年福岡市生まれ。1998年名古屋大学理学研究科宇宙物理学専攻博士課程満期退学。
主な展覧会に、2006年「先間康博作品展 “林檎 ニュートンもセザンヌも僕も”」ツァイト・フォト・サロン/東京。2007年「Japan Caught Camera」上海美術館/中国。2008年「先間康博作品展”夜と林檎”」ギャラリーHAM/名古屋(以降、’10年’14年’16年’19年)など。
study meeting vol.15「反復する写真と絵画」は、是非に、とのお問い合わせも多く、定員以上の方々にお集まりいただきました。ご参加くださった皆さん、ありがとうございました。
写真と絵画の関係性については、この写真講座でも様々な角度から考察してきましたが、デヴィッド・ホックニーが著書「Secret Knowledge-秘密の知識」で明かしてみせたように、近年、カラヴァッジョや、フェルメール、レンブラントらが光学機器を利用して絵を描いていたことが知られるようになり、レンズや鏡、そしてカメラと絵画は、切っても切れない関係であることが、更に分かってきました。
そして彼らのように、写真を直接的な手段として制作に用いる一方で、クールベの海辺の波の一瞬のうねりを捉えた作品などは、まさに「写真の目によって生まれた絵画」なのではないか、また一見すると、写真とは関係が無いようにも見える、モンドリアンやジョセフ・アルバースの作品にも、写真的なものの見方が見てとれると、先間さんは指摘します。
「写真とは見る行為そのものである」というのが、先間さんの写真論の基軸ですが、「現実の実感からしか(作品は)生まれない」、それはまず「見て、感じる」ことであり、クルスチャン・ボルタンスキーなど、写真を通じて獲得したものの見方を作品化している作家を挙げながら、美術は写真と絡み合いながら作品化されていると話されました。
その上で今回は、写真を用いることで絵画の可能性を広く探究しつづけてきた、ドイツの現代美術の巨匠ゲルハルト・リヒターを取り上げました。「フォト・ペインティング」、「カラーチャート」、「グレイ・ペインティング」、そしてガラスや鏡を使ったシリーズなど、リヒターの仕事は多岐にわたり、抽象絵画の作家として世界的に知られています。
「一旦、写真になったものを描いた方が冷静に描ける」として、作品に自分の意思が入ることを避けているリヒター。そこにはかつて過ごした旧東ドイツ時代の、自由の無い生活が影響しているとされています。イデオロギーを強制された上での自由は、自分の意思でありながら、それはあらかじめコントロールされたものでしかない、そんな経験が、逆にシンプルに描くこと、ただ描くことに惹かれ、写真のようにシャッターを押し、ただ写すように描くことをはじめます。しかし単に写実的にそれを描き写すのではなく「写真上の壊れ方」と同じように、写真のイメージを保ちつつ、ブレたように加工しながら、あくまでも冷静に描かれています。それは「写真にしかない現象をあえて描くことで、絵画の裏の意思を探ろうとしているのではないか」と先間さんは捉えます。
写真のプリントの上に絵具を載せた「Oil on Photo」では、写真のなかのイメージが持つ色を抽出、または違う色味を加えながら、画面を絵具で覆うように描かれている、というよりは、スキージで質感そのままに絵具が載せられています。しかし絵具の物質感と同時に、写真的な現実感も画面になお強く残されています。先間さんはそれを「リヒターが積み重ねた現実」であり、「実はそこに何も無いのかもしれないが、あると思わせる何かがある」と言います。そしてそれは他でも無く「見る人の意識下で作られるものなのだ」と。
リヒターは実際に「考えてその通りにすることは、何も生み出さない」、「分からないことをやる、そして偶然から考える」と語っています。
制作のための基礎資料とも言える写真やドローイングによる「ATLAS」や、元々は何らつながりの無い、自身の作品のイメージと新聞記事とをつなぎ合わせた「War Cut」などに、それが表れていると言えるでしょう。「ATLAS」で自身の制作に関する情報のすべてを開示しても、なお残るところ、「War cut」の無作為の行為がもたらす偶然の結びつきから起こることを、見ようとしているのです。
『自分のしていることは、分からない。分かってはいけないのです』、『(展示、キュレーションによって)別の見方、他人の視点で(自分の作品を)見られることは良いことです』
最後に流れた、金沢21世紀美術館での個展(2005年)の際のインタビューが、昨年末の藤本由紀夫さんのアーティスト・トークでのお話と相まって、印象的でした。