study meeting vol.14 「タイポロジーと現代写真」




「タイポロジーと現代写真」
期日:2019年9月14日(土)
時間:18:00-19:00
講師:先間康博 (写真家)
定員:10名
会費:1,000円


980年代、写真の中ではニューウェーブとかメイク・フォトと言われる動きが、ニューヨークを中心に巻き起こる。写真は真実を伝えるものではないとは思われはじめたけれども、それでもまだ曲がりなりにも目のまえの現実を写したものと思われていたものが、この時代、大きく転換することになる。テイク(Take:撮る)からメイク(Make:作る)へ。自らの思う現実を作り上げ、撮影する。それらは、人形であったり、自分であったり、愛犬であったり。此処にはない夢の世界を作り上げ、その中で遊ぶ彼等の現実を写し撮る。写真は画面の向こう側へも旅立てるということを、この時、示されたのかもしれない。同時にそれは、創作というアートの世界へ写真が本格的に入っていく入口にもなったのである。     先間康博(写真家)



画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、座ってる(複数の人)、室内



914日開催、写真家 先間康博さんによる写真講座study meeting vol.14「タイポロジーと現代写真」にご参加くださった方々、ありがとうございました。

『たとえ写真であっても、絵画や彫刻と違って、マチエールやテクスチャーの差がそれほど無いとしても、資料ではなく本物のプリントと向き合って、まず自らが考えてほしい。』

前回のstudy meeting vol.13「作られた物語」の最後に、先間さんは、「まず見ること」、「自分の目で確かめること」の重要性を語られました。

そして今回、ベッヒャー夫妻のオリジナル・プリント3点を用意されました。然る方からのご厚意でお貸しいただいた大変貴重なもので、1960年制作の初期作品です。ベッヒャー夫妻の代名詞である給水塔などの工業建築をタイポロジカルに並べた作風とはまた違う趣で、プリント自体は小さく、ドイツの田舎町の民家を写したさりげない風景写真のような様相です。しかし、その何の迷いもない静かな佇まいに、夫妻の眼差しが、すでに確立されていることが表れているように思われます。



 画像に含まれている可能性があるもの:室内


壁面に展示されたオリジナル・プリントとともに、いつものように先間さんのお話が静かにはじまります。

これまでもstudy meetingでは、写真について、絵画や彫刻、ときに科学の領域にも照らし合わせながら考えてきましたが、今回も冒頭から、いくつかの絵画が映し出されました。古代ローマ時代の「薬物誌」の数ある写本のなかでも有名とされる「ウィーン写本」や、伊藤若冲「『動植綵絵』の内「群魚図」()」、南方熊楠「菌類図鑑」、中谷宇吉郎「雪の結晶」などのように、物事を分類し博物的に描くことは、古くからなされてきました。また考古学や現孝学でも同様に、記録する手段として扱われてきた絵画や写真の在り方が、時代が進むにつれ、やがてひとつの表現となっていったことが示されました。

写真の世界からはまず、「20世紀の人々」として、人物を7つのセクションに分類し撮影することを通じて、当時の社会を把握しようと試みたアウグスト・ザンダー(1876-1964)が挙げられました。写真におけるタイポロジーの先駆けともいえるザンダーの「人を見分け、分類する」行為は、一方で優性思想へと結びつく危険性を孕んだものでした。

次いで、ボタニカル・アートのように、植物や草花を緻密に撮影したカール・ブロスフェルト(1865-1932)のサイエンティフィックな作品や、以前study meetingでも取り上げた、世界恐慌下のアメリカ南部の農村部のドキュメントや、産業や住宅事情などの記録に特化し、テーマをしぼった明確な写真で知られるウォーカー・エヴァンス(1903-1975)なども、タイポロジーの系譜にあり、また同じくアメリカの1950年代の輝かしい繁栄の裏にある、うらぶれた街のありのままの姿を写し出した「アメリカ人」で知られるロバート・フランク(19242019)も写真を通じて、同時代の出来事を鮮やかに「比べて見せる」新たな写真の在り方を示したと言えるのではないか、と話されました。

そして「感情を外したところから物事を見るように、郊外のなんの変哲もない風景を写した」ルイス・ボルツ(1945-)や、「目的を決めてひたすらに、素人のように撮りつづけ」後にペインターとしても知られるようになるエドワード・ルッシェ(1937-)のような、クールな表現が、コンセプチュアルアートの世界からも注目を集めるようになります。



写真の説明はありません。



そんな最中に、ベッヒャー夫妻が登場します。
夫であるベルント・ベッヒャー(1931-2007)と妻のヒラ・ベッヒャー(1934-2015)は、ともにデュッセルドルフ美術アカデミーで学び、出会います。絵画や石版画、タイポロジーを学んだベルント・ベッヒャーは、ある時、自身が生まれ育った町の鉱山が衰退していく様子を目の当たりにし、それを絵画で記録として残すことを思い立ちます。しかし建物が壊されていくスピードに自分の筆が追いつきません。そこで写真を使うことを考えたベルントの話に興味を示したのが、アカデミーで写真を専攻していたヒラでした。まずベルントに撮りたいものがあり、ヒラが持っている写真のテクニックと知識でそれをフォローする。そうしてふたりで取り組む写真がはじまりました。

ベッヒャー夫妻はその撮影方法について、『淡々と平板に、他の作品と比べやすいようにして撮る』。『撮影は正面か、斜め45度から、厳密に』。『曇天をねらい、撮影の対象以外はぼかすようにする』。『樹木や草花など要らないものがなるべく入り込まないように、撮影は春と秋に集中させる。場合によっては、ものを移動させることもある』と、語っています。しかしながら、条件を完全にコントロールすることは出来ません。広い野原の遠くに見える工場をバックに、遊びに来ていた子どもたちを写した、珍しい1枚も紹介されました。

給水塔、採掘塔、溶鉱炉やサイロ、住宅。同じような対象を同じような条件で撮影しつづけたベッヒャー夫妻の作品の面白さはどこにあるのか。それは、それらの建物がみな「匿名」であること、またそれを「見比べること」にあると先間さんは言います。並べられた写真はみな同じように見え、また違うようにも見えます。無名の建築を観察することで、似ているところ、要らないところ、また機能的に見てどうかなど、そこから引き出されるさまざまな情報を通じて、次第にいろいろなことが見えてきます。「見比べるために、そして違いが分かるように、なるべく厳密に条件を揃える。それが作品の力となり、だからこそ、そこに見えてくるものがあるのではないか」と。

そのミニマルな見せ方は、美術家のカール・アンドレやソル・ルウィットらにも影響を与えたとされ、更に「無名の彫刻(建築)を作品化した」として、「第44回ヴェネツィア・ビエンナ-レ」(1990)において、最高の栄誉である金獅子賞を彫刻部門(!)
で受賞したことで、ベッヒャー夫妻の評価は現代美術の世界においても、ゆるぎないものとなりました。

そして、ベッヒャー夫妻の名を世に知らしめたもうひとつの理由は「ベッヒャー・クラス」の存在です。デュッセルドルフ美術アカデミーの「ベッヒャー・クラス」からは、トーマス・シュトルート、アンドレアス・グルスキー、トーマス・ルフら、日本でも馴染み深い作家が次々と生まれ、ドイツ現代写真の礎が築かれました。

『学生たちが自らのテーマを組織だって、かつ首尾一貫性をもって取扱い、また、彼らがそのテーマを自分自身で発見すること』を望み、『作家の身近な環境への、明晰で、手を加えない光景』が特徴とされるベッヒャー・クラスですが、夫妻が実践したタイポロジーの厳密さは、学生たちにはあまり見ることはできないとも言われています。

しかしながら彼らの作品には、『インスタレーションは個々の展示空間にあわせて考えられている』点や、『写真における空間と写真の展示の空間が重層的に関係しあっている』こと、『鑑賞者の側にも静謐と集中を必用とする』、また『社会的な公共性や社会的現実に関係のあるテーマに、それを前面に押しだそうとしなくても、関わり合っている』というような特徴も見られることなどが、紹介されました。

その上で、トーマス・シュトルート(1954-)の、美術館で作品を鑑賞している人、つまり「何かを見ている人」を淡々と写すシリーズについて、先間さんは「しっかり撮ると(作品が)冷たくなる」としながら、そこに感情を移入することも、させることもない代わりに、それが「見る」ことの客観性を浮かび上がらせているところに、ベッヒャー夫妻の影響が垣間見られるのではないか、と話されました。

また、ベッヒャー夫妻も参加した1983年ニューヨーク近代美術館(MOMA)で開催された「現代写真家によるビッグ・ピクチャーズ」展に見られるように、「手元に置いて見るのではなく、大きくすることで非現実感を出そうとする」作品提示が見受けられるようになるなか、トーマス・ルフ(1958-)は「ポートレイト」(1988)のシリーズで、まるで証明写真のような友人の無味乾燥な顔写真を、約2メートルのサイズに引き伸ばした作品を発表し、話題となります。今では、もはやカメラを持たない、自分で撮らない写真家と言われるトーマス・ルフですが、常に社会の現象をするどく見抜きながら、「写真を、社会を見る道具として使いつづけている」制作姿勢に、ベッヒャー・クラスからつづく意思の深さを感じさせます。

そしてまた同様に、アンドレアス・グルスキーの「人間の目では見えない、把握できないもの」を「一歩離れたところから、システマティックかつ冷静に」捉えようとする、デジタルを駆使した作品も、ひとつの写真の在り方として確立されたのではないかと、話されました。

写真集では、ベッヒャー夫妻の組写真や、トーマス・ルフの「ポートレイト」のスケール感は分かりません。印刷になってしまえば、それが印画紙に焼き付けられたものなのか、デジタルで出力されたものなのかも分からないでしょう。(最近は実際に見ても見分けがつかない、というのも事実ですが・・・)。また先にあった『写真における空間と、写真の展示の空間が重層的に関係しあっている』ことを確認するには、自分自身がその空間に身を置いて、作品と向きあうことでしか出来ません。それは、視覚だけが見るという行為を担っているわけではないことを、私たちに気づかせてくれます。

最後になりましたが、作品を快くお貸しくださいましたおふたりに、心よりお礼申し上げます。

次回は「反復する写真と絵画」として、写真と絵画が交錯します。ベッヒャー夫妻と同じドイツの同時代を画家として活動し、「ドイツ最高峰の画家」と呼ばれるゲルハルト・リヒターの「フォト・ペインティング」に迫ります。